修道院に行きしこと

Roo2004-11-16

その修道院の名をMamelis-Vaalsという。昔から重要な要所であったドイツ・ベルギー・オランダの緩衝地帯の大都市、Maastrichtという町(現在はオランダ国内)から車で1時間。ドイツ国境に限りなく近いところにある修道院である。なだらかな丘陵地帯が続くなか、大通りから修道院へ続く丘を少し登ると、修道院の入り口に到着する。バスを降りたとき、この地域出身のオランダ人の学生が、「あの丘のむこうはもうドイツだよ」と数キロ先の丘を指して教えてくれた。駐車場が設けられている正面からみた修道院は、建築的に完全に閉じられている。建物の規模にしては狭い玄関、正面には窓がほとんどなく、建物の壁にあたる部分は、城壁のようであり、人を拒絶しているようにみえる。実は、この修道院を有名としているのは、現在に続く宗教的意義もあるが、Van der Laanという建築家が設計した近代的なデザインの教会であったりする。

約束の時間に訪れた我々をむかえたのは、黒い修道服に身を包む小柄な老人だった。考えてみたら、廃墟となった修道院ならともかく、現役の修道院を訪れるのは私にとって初めてであると気づく。そう認識すると、失礼とは思いながらも、初めて眼にする修道僧をまじまじと観察してしまう。しかし、彼は私たちをむかえると慌てたように(しかし、もちろん静かに)どこかへ行ってしまった。

この修道院全てが近代建築であるわけではない。私たちが立ち入れない修道僧が生活する奥の建物は、中世頃のかなり古い建物であるらしかった。新しく手前に設計されたのは、入り口に位置する建物(おそらくアドミニ的役割をはたすもの)、教会、そして地下の礼拝堂である。しばらく地下を見てまわっていると修道院内に鐘の音が響いた。定められた僧侶達の礼拝が、教会で行なわれる合図である。急いで上階の教会にむかうと、そこには、100人程度を収容できるであろうか、という小規模な教会であった。地元の人とおぼしき人々の姿がチラホラ手前のイスにみられる。彼らにならって席に着くと、側面に設けられた扉が開き、最初に私たちをむかえてくれた僧侶が、天上に近い窓から差し込む光の中を粛々と進んでくる。彼に続いて20名ほどの僧侶達が次々と扉から入ってきては、中央の祭壇に一礼をしてから着席する。彼らの席の前には縦60センチ、横40センチはありそうなラテン語の装丁本がおかれている。席に着いた僧侶たちは、その本(聖書か?)を開くと、他の人々が全て入ってくるのを静かに待っているようである。そして、それは突然始まった。


キリスト教はあまり詳しくないが、僧侶達が次から次へ謳いあげるラテン語は、グレゴリウス聖歌のような神聖さと透明さをもっている(っていうか、もしやこれがそうなのか?ちがうよなぁ?)十字架の上にみえる四角く切り取られたような外の風景、左右から差し込む光。そして響く和音。いくつもの音が重なりあって、複雑に絡み合いながら天につむがれていく。毎日、おそらくは数百年以上、この修道院でつむがれてきたであろう祈り。


突然始まった祈りは、また突然に終わった。20分ほどで僧侶達はまた、粛々ともとの世界に帰ってゆく。なんとなく、後に残された私たちも光の中、しばし余韻にひたってしまう。
歴史のなかで継がれていくもの、新しくつくられるもの。そしてその結果、創られる新しくも古くもないもの。変わらないものはない、と思う反面「変わらない」と信じたい気持ちはなんなんだろう、などと私としては、真面目なことを思ったりするのは、秋だからか?